2011/02
教育者 ウイリアム・S・クラーク君川 治


[日本の近代化と外国人 シリーズ 2]



 クラーク博士から直接指導を受けた
 札幌農学校一期生

 佐藤昌介:札幌農学校長、北海道帝国大学初代総長、農場経営
 伊藤一隆:北海道水産業界の先達、水産行政、石油開発
 内田 瀞:北海道開拓、農場経営
 黒岩四方之進:北海道御料牧場長、農場経営(日高の馬)
 渡瀬寅次郎:水戸中学校長、茨城師範学校長
 大島正健:甲府中学校長


 札幌農学校二期生
 南鷹次郎:札幌農学校教授、北海道帝国大学初代農学部長、第2代総長
 広井 勇:札幌農学校土木工学科主任教授兼道庁土木課長、札幌−幌内間鉄道工事、小樽築港、東大教授
 宮部金吾:植物学者、札幌農学校教授、北大教授、北大付属植物園長
 新渡戸稲造:札幌農学校教授(工学科)、兼道庁土木課長、台湾総督府糖務局長、第一高等学校長、国際連盟事務次長
 内村鑑三:農学者(水産学)、宗教家、非戦論と平和主義
 
 札幌の北海道大学の大学正門を入ると、Boys ,be Ambitious(少年よ 大志を抱け!)の言葉を残したクラーク博士の胸像がある。一期生佐藤昌介胸像の胸像があり、二期生で国際的な学者新渡戸稲造の胸像もある。クラークが札幌で教鞭を執ったのはわずか9ヶ月であり、直接指導を受けたのは一期卒業生13人のみである。にもかかわらず我が国に大きな足跡を残したクラークとはどのような人物であったのだろうか。北海道大学には百年記念館や総合博物館があり、札幌農学校の歴史を辿ることができる。
 維新政府は1869年に北海道開拓のために開拓使を設置した。初代長官は鍋島直正、二代長官は東久迩通禧が務めた。薩摩藩出身で箱舘戦争の功労者黒田清隆は、開拓次官として実際の業務を統括した。黒田は第3代開拓使長官となると自らアメリカを視察し、グラント大統領に面会して有為な人材を求めた。そこで推薦された農務局長ケプロンは、建築技師や鉱山技師などを同行し開拓使顧問として活躍する。北海道の開発、農業指導にも多くの実績を残したという。
 ケプロンは学校設立を献言し、札幌農学校設立に際してマサチューセッツ州立農科大学のクラーク学長が推薦された。現役の学長であるクラークは周囲の反対にもかかわらず、1年間の約束で札幌農学校の学長(実際は教頭)を引き受けた。開拓使に招聘されたお雇い外国人は75人もの多数にのぼるが、工部省や文部省などがイギリスなどヨーロッパ人が多いのに対して、開拓使はアメリカの農業を学ぶ姿勢が強く、アメリカ人中心で進められた。
 札幌農学校は専門教育機関であるが、クラークの教育方針は学問と同時に人格を重んずる自由教育である。その表れが細かい学校規則を廃止しての、“Be Gentleman”であった。開校式のクラークの演説は、札幌農学校を北海道の開拓に寄与する人材を育成すること、学生には国家のため高い志を持って、健康に留意し、食欲を慎み、性欲を抑え、勤勉で、学術研究に励むようにというものであった。
 黒田はクラークに道徳教育を依頼し、クラークは聖書とキリスト教による人格教育を行った。官立の学校でキリスト教を教えたのはこれが最初であった。授業はすべて英語で行われ、学力不足の者は退学させられて、24名いた一期生の卒業生は13人という厳しさであった。
 クラークは学生たちに2つの誓約書にサインを求めた。第一は「禁酒・禁煙の誓約書」であり、第二は「イエスを信ずる者の誓約書」である。一期生の大島正健の「クラークとその弟子たち」などの資料を読むと、不思議なことに学生たちは抵抗なく、イエスを信ずる者の誓約書にサインしている。
 クラークは1826年にマサチューセッツ州の医師の息子として生まれた。アマストカレッジで学び、ドイツのゲッチンゲン大学で化学と鉱物学を専攻して博士の学位を取得し、母校の化学教授を15年間勤めた。農業にも関心を持ち、州立農会議員、農会長などを務め、1867年にマサチューセッツ州立農科大学が設立されると、推されて学長に就任した。南北戦争では北軍の義勇兵として参戦もした、敬虔なピューリタンである。
 一期卒業生13名はクラークの去った後、全員が洗礼を受けている。4名が早世するが、残り9名の殆どが生涯キリスト教徒として活動している。
 二期生は東京英語学校から12名、工部大学校から4名の16名が入学するが、卒業は10名であった。この中には内村鑑三、新渡戸稲造、宮部金吾、広井勇などがいる。クラークの直接指導は受けていないものの、ピューリタンの教えはクラークと同行来日した教頭ホイラー、教授ペンハローらによって、しっかり引き継がれていた。 
 一期生たちから「イエスを信ずる者の誓約」にサインを求められ、最後まで拒み続けたのは内村鑑三であった。内村鑑三の「余は如何にして基督教徒となりし乎」によれば、「一年生の時、キリスト教に入ったが、それはまったく強制されたものであった。余の意志に反して、また幾分の良心にも反して」と述べている。二期生の内7名は洗礼を受け、一期生と共に札幌独立教会を設立している。
 札幌農学校は1908年に東北帝国大学農科大学となるまでの29年間に、1459名の卒業生を送り出している。卒業生の進路は下記のように教職に就いたものが際立って多い。
  教職者               40%
  農業・実業家            20%
  北海道庁官吏            10%
  一般管理              10%
  その他(宗教家・学者・外交官など) 20%
 札幌農学校は学問の自由と豊かな人間性教育を追求した学校として異色といわれているが、わずか9か月の滞在でクラーク精神をこれほど広めたのは、卒業生に教職者が多かったことによるのではと思うところである。


君川 治
1937年生まれ。2003年に電機会社サラリーマンを卒業。技術士(電気・電子部門)




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